高市首相はNHK討論会を欠席した。理由は手、腕の痛み。リウマチだそうだ。手、腕に負担のかからない、暖かい屋内での討論会は欠席。寒空の下行う演説には意気揚々と参加したそうだ。リウマチは寒いと辛いと聞くのだが。
野党から統一教会疑惑を追求されるのが分かりきってきるから討論会は欠席。れいわの大石あきことか、大石あきことか、他にもれいわの大石あきこから追求されるから。自分のファンしか集まらない、自分の言いたいことだけを言える、都合の悪いことは自分が言わなければ済む演説には参加。国民の前で説明する場は欠席し、支持者の前で演説する場には元気に登場する。
この選択を「戦略」と呼ぶか「逃避」と呼ぶかは人それぞれだが、少なくとも“説明責任”という言葉の意味は、だいぶ軽く扱われているように見える。
だが、もっと深刻なのは、こうした出来事に対して「まあ仕方ない」と受け流す国民の側かもしれない。現状維持バイアスに侵された国民たち。
「変えて悪くなるくらいなら、このままでいい」という、ぬるま湯のような安心感に浸り続ける。
生活が苦しい?政治が腐敗している?疑惑が説明されない?それでも「今より悪くなるかもしれないから変えない」。この国の政治は、国民の変わることへの恐怖と諦めに支えられているのかもしれない。
長期政権が腐敗するのは、政治の世界では常識だ。利権は固定化し、外部団体は浸透し、内部の新陳代謝は止まる。これは政治家個人の善意や誠意ではどうにもならない構造的な問題だ。それでも「自民党が悪いわけじゃない」と言い張るのは、もはや宗教的な信仰に近い。
討論会を欠席しても、街頭演説で討論会を欠席するほどだったはずの手も腕も振り回しても、疑惑に答えなくても、「嫌なら入れなければいい」と突き放されても、それでも支持する人が一定数いる。その支持は、信頼というより“妄信”に近いのではないか。
民主主義は、政治家が誠実だから成立するのではない。国民が監視し、問い、疑い、記録し、判断するから成立する。選挙前の気前の良い公約や言動を記録として保存したり、スクショを残すのは、もはや市民の自衛手段だ。選挙後に答え合わせだ。政治家の選挙前の公約や言動とその後の答え合わせは国分太一の答え合わせなんかより遥かに大切だ。
今回の選挙は、850億円もの税金を使って「私が総理でいいか?」を問う場だという。ならば、国民が判断するための材料を提供するのは最低限の義務だろう。唯一の討論の場から姿を消したままでは、判断しようがない。
説明なき信任は、白紙委任の強要に等しい。そして白紙委任を繰り返す国民は、主権者ではなく思考停止した観客だ。自らの頭では大して考えもせず、ヨダレを垂らしたままいつも通り、いつもと同じところに投票していいのか?
政治家が逃げるのは、逃げても許されると知っているからだ。すぐに新しいニュースに上書きされて風化することを知っているからだ。国民が怒らないと、政治は変わらない。怒ることを忘れた国民が住む国に民主主義は存在しない。
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