人は自分のことは棚に上げて良い 正義を語り、説明を放置するという矛盾──れいわ新選組の自己崩壊

企業群も宗教も団体の支援もなく、一般市民に支えられた草の根政党だと喧伝し、事あるごとに与党も野党も関係なく批判してきたれいわ新選組がめくれてきている。

れいわ新選組の秘書給与に関する疑惑と太郎山本のオービス放置プレイ。

秘書給与に関する疑惑

具体的には、党が所属議員の公設秘書枠を党本部で一括管理し、国から支払われる給与を事実上の党資金として還流させていたとされている。この問題は党の内部で秘書枠を党に差し出す慣行が存在し、党務協力金として年間300万〜360万円が議員側にキックバックされていた可能性がある。この疑惑は、税金が議員活動の補佐のために支給される公金を目的外利用していた疑いを含んでおり、刑事事件として立件される可能性も高い。

太郎山本のオービス放置プレイ

「警察からスピード違反の件に関して連絡してほしいとのこと」。その伝言に対しての太郎山本の返答は「昨日の件は放置でいいから。とりあえずステイで」。
政府は震災に遭った能登半島を放置プレイと糾弾していた太郎山本が、速度違反を放置プレイ。
案の定、放置プレイで済むはずもなく、スピード違反から3ヵ月後、警察から連絡があってから2ヵ月後、病気に依る議員辞職会見の翌日に警察に出頭。

主観と客観のギャップが言動を変える━━自分を棚に上げて良い

定例会見では散々与党も野党も批判してきた太郎山本。しかし自分のことになると会見には一切出ない。スピード違反のみならず、説明責任も会見も放置プレイ。
でもそれで良い。他人のことは冷静に客観的に捉えられるから「こうするべきだった」と正論が言える。いざ自分の身に問題が起こると以前の自らの発言とは整合性が取れない言動をする。それが人間の習性である。だから仕方ない、人間とは誰もがそう。太郎山本だけではない、みんなそう。
他人のことは所詮どうでもいいことなので客観的に冷静に物事を見られて正論を吐ける。自分のことは主観が入るので、客観的に捉えられないので他人へ言っていたこととは違う言動を取る。
他人のことは客観で捉える、自分のことは主観で捉える。その違いがあるから同一人物でも、客観で捉えた時と主観で捉えた時の言動に違いが出る。それが人間の習性。習性なのだから仕方がない、人間とはそもそもそういうもの。
親でも子でも、愛する人でも分かりあった恋人でも、唯一無二のなんでも語り合った親友でも、自分以外の人間の主観に入り込むことは一生できない。
だから自分のことは棚に上げて他人のことを追求していいのである。自分のことを棚に上げてはいけないとなると、もう誰も犯罪や不祥事を指摘できなくなる。清廉潔白、聖人君子などこの世に一人もいないのだから。

高井はチャンスを不意にした

太郎山本も大石も会見には出てこない。代わりに会見した高井副幹事長はチャンスを不意にした。党の体質のことも太郎山本のこともも庇ってしまった。「法的に何も問題はない」と言ってしまった。チャンスだったのに。
ここで
「仲間だからこそ厳正に対処する。政治家は法的に問題がなければいい訳じゃない。そんなことを言ってしまったら散々我々が批判してきた自民党と同じになってしまう。我々は彼ら自民党とは違う。法的に問題がないことなど当然だ。政治家には一般人より遥かに高い倫理観が求められる。道義的、倫理的に問題があること、つまりグレーなこともするべきではない」
とでも言っておけば、今回の事態を逆手にとってれいわ新選組の株を上げられたのに。
それなのに高井の口から出た言葉は「法的に何も問題はない」。

「病気一歩手前」という便利な幕引き

政治家の辞職劇には、いつも“物語”がつきまとう。潔い退場、涙の会見、あるいは「健康上の理由」という万能カード。だが今回のケースは、その幕引きのタイミングがあまりに出来すぎていると感じる人も多いだろう。辞職発表の翌日に警察へ出頭――この順番を見れば、「本当の理由は別にあったのでは」と疑念を抱くのは自然だ。
病気を理由にすれば、批判の矛先は鈍る。メディアも世間も“弱者”には甘い。本人もそれを計算していたのではないか、と考えてしまう。ほとぼりが冷めた頃に「完治しました!」と復帰する青写真まで描いていたのでは、と。
しかし、今回ばかりはその筋書きが崩れた。隠しきれなかった“日常の素顔”が露呈したからだ。

人は「誰も見ていない時」に正体が出る

政治家は人前で綺麗事を語るのが仕事だ。壇上で胸を張り、カメラの前で正義を語ることは、自己顕示欲や承認欲求が強い人間なら誰でもできる。
だが、日常の一幕――本人が「見られていない」と思っている瞬間こそ、その人の本質がにじみ出る。
モラルや信念は、演説ではなく“素の行動”に宿る。今回明らかになった行為は、まさにその素顔を映し出してしまった。
「病気一歩手前」という言葉の軽さ

そもそも「病気の一歩手前」という表現自体が曖昧だ。病名でも診断でもなく、ただの“便利な言い訳”に聞こえてしまう。
人間50歳も超えれば誰しも何かしらの“一歩手前”を抱えて生きている。ガンの一歩手前、心筋梗塞の一歩手前、脳梗塞の一歩手前――そんな人は世の中にいくらでもいる。それでも皆、日々の生活を続けている。

批判はするが、批判されるのは嫌い

辞職のタイミングも絶妙だった。政治とカネの問題や今回の件が表に出る前に、先手を打つように退場。
自分は他者を批判するが、批判されるのは嫌う――そうした態度は、特定の政治的立場に限らず、権力を持つ者に共通する弱点だ。
だが、今回はその“逃げ道”が塞がれた。世間も警察も、そんなに甘くはなかった。

幕引きのつもりが、幕が開いてしまった

病気を理由に静かに幕を下ろすつもりだったのかもしれない。しかし実際には、そこから新たな幕が開いてしまった。
そしてその舞台に立たされたのは、演説で飾られた“政治家としての顔”ではなく、日常の素顔のほうだった。
復帰の道は、もはや平坦ではない。
むしろ、今回の件で“本当の姿”が露わになったことで、政治家としての物語は終章に向かっているのかもしれない。

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