折田楓から学ぶSNS時代の「盛りすぎプロフィール」と承認欲求の社会学

折田楓がnote投稿の件、公職選挙法違反の件で不起訴になった。彼女を見ていると全く同じ学歴経歴職歴実績でも、自分で言うのと第三者や周りが言うのとでは全く価値が違ってくることを教えてくれる。自ら言うとそれはただの自慢となり聞く方は見る方はただ不快になるだけ。第三者、周りから聞けば一目置く存在となる。折田先生という最高の反面教師がそう教えてくれた。

― 自慢が嫌われ、陰徳が尊ばれる理由 ―

SNSが生活の中心に入り込んで久しい。だが、タイムラインを眺めていると、どうしても目に入ってしまう存在がいる。“盛りに盛ったプロフィール”と“自慢投稿の連打”で自己を飾り立てる人々だ。盛れるだけ盛って良いのはざる蕎麦だけなのに。
学歴、経歴、実績、肩書き、受賞歴、クライアント名、ブランド品、旅行先、高級レストラン。まるで「人生の棚卸し」をプロフィール欄に全部詰め込んでしまうような人たち。
もちろん、事実を記載すること自体は悪ではない。だが、「自分で言う」と「他人から言われる」では、同じ情報でも価値がまるで違う。

自慢はなぜ“嫌われる”のか

人間の心理は単純だ。

  • 自分の成功は語りたい
  • 他人の成功は聞きたくない

この矛盾を理解していないと、SNSは地雷原になる。日本文化には「侘び寂び」「慎ましさ」「陰徳」という価値観がある。功績は自分で語るほど陳腐化し、他人が語るほど神格化する。
大谷翔平が自らの実績を自慢するだろうか?周囲が勝手に「大谷は凄い」と言うから大谷は凄いのである。自ら自分の実績を発信している時点で大したことない、自ら「私は小物です」と言うているのに等しい。

SNSが生む“承認欲求モンスター”

SNSは、承認欲求を増幅する装置だ。

  • 「見てほしい」
  • 「褒めてほしい」
  • 「すごいと言われたい」

この欲望が暴走すると、プロフィールは肥大化し、投稿は自慢で埋まり、笑顔は不自然に固定される。本人は純粋に「見てほしい」だけなのだろう。だが、周囲はそうは受け取らない。“自慢しかしない人”というレッテルは、一度貼られると剥がれることはない。

イエスマンに囲まれた人ほど暴走する

SNSで痛々しい投稿が続く背景には、しばしば周囲の沈黙がある。

  • 周囲や社内にストッパーがいない
  • 注意すると関係が壊れると思われる関係性しか構築していない
  • 指摘すると逆に自分が排除されると思われる関係でしかない

こうして誰も止めないまま、満足すのは本人のみで周囲は苦笑い。本人は周囲のその苦笑いにも一向に気付かず、至ってご満悦。満面の笑みで“自慢の連投”を続ける。
本人は悪くない。人間は主観でしか自分を見られない。だからこそ、周囲の助言が必要なのだ。

自慢は“毒”だが、観察すると学びがある

自慢投稿は不快だが、同時に人間の習性を教えてくれる教材でもある。

  • 調子の良いときは格好良いことを連発する
  • 問題が起きると黙る
  • 自分の功績は誇張する
  • 承認欲求は年齢と無関係に暴走する

こうした“反面教師”は、我々にこう教える。「人は誰でも自分のことになると客観性を失う」。だからこそ、日頃から自信を客観視して、慎ましく、語りすぎず、余計なことは語らず、盛りすぎず、陰徳を積むことが大切だ。

SNS時代の処方箋

自慢が悪いわけではない。だが、SNSでは以下の原則が生きる。

  • 語るより、語られる方が価値は高い
  • 盛るほど、信頼は薄まる
  • 謙虚さは最大のブランド
  • 承認欲求は麻薬のように依存性がある

SNSは便利だが、扱いを誤ると本人の品位まで損なう。だからこそ、私たちは“反面教師”から学ぶ必要がある。

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