私刑は正義 “晒されないと動かない”という社会構造がある限り

子ども同士の暴力行為を記録した動画が、「いじめ告発」としてSNSで拡散される事例が相次いでいる。映像には顔や氏名が掲載されることもあり、誤った情報が付随するケースも少なくない。強い憤りが拡散の勢いを生んでいる。
それは私刑といわれ賛否を呼んでいる。専門家、有識者はこぞって私刑は良くないと、同じ文言を吐くばかり。本当に私刑はいけないのだろうか?

SNS上で拡散されて初めて「ヤバい」と対処に動き出すことが多々あることもこれまた事実。枚挙に暇がないほどに次から次へと出てくるし、毎日実例が更新されていくので追っているだけキリがないが、以下は今回の主張を追認するために恣意的に取り上げる実例ではなく、Xを覗けばいくらでも出てくる実例である。

メルカリは「返品すり替え詐欺」に遭ったユーザーがサポートにいくら訴えても返信は遅く、しかも毎回定型文が送られてくるだけ。何度サポートに訴えても同じ。藁にもすがる思いでXに投稿したらバズった。その途端、メルカリから180度変わった態度で返信が来た。

ニコニコレンタカーを利用したユーザーが返却時に砂粒程度の傷があると10万弱請求された。そもそもニコニコレンタカーは他社より圧倒的に安いことを売りにしている。なぜ安いのか?車がボロ車だから。そのボロ車にごく僅かな、社会通念上レンタカーとして貸し出している以上、当然に許容されるべきごく僅かな傷が付いていたと客へ10万弱請求。
その一連をユーザーの友人がXに投稿したらバズった。途端に運営側が謝罪し、請求取り下げだと。

企業は「全てはお客様のために、従業員は家族ですっ!」。そう喧伝する。現実は客などただのワンオブゼムでしかない。個人客一人一人のクレームなど対応していたらキリがないのは当然だ。我々個人客は企業にとってただのワンオブゼムであることを理解するべきである。声を上げたところで無駄。ごく僅かなその声が届いたものだけをメディアは美談として流すから勘違いしているだけ。
食レポ番組には社長や店長や店員が出てきてにこやかに和やかに、あーだこーだお店や料理の解説をするが、我々一般人が同じ店へ行ったところで社長も店長も出てこないし、店員は料理の説明などしないことにあなたは気付いているだろうが。

SNSへ投稿して悪事を暴いたからこそ、救われた人も大勢いる、これまた事実。
今までも、今も、これからも、基本的に誠実な対応などする所などないという前提でいないと。そもそも誠実な対応を期待しているあなたが悪いのだと。
行政も企業も学校も各種団体も、問題が起こればとりあえず放置、隠蔽し、騒ぎが収集できなくなって初めて、仕方なく対処に動き出すことが前提でいるべきである。世の中そんなにいいもんじゃない。人なんていいもんじゃない。社会は性悪説であるという前提でいるべきであるし、実際にそうである。
メディアがごく一部の美談を大々的に取り上げるから、あたかもそれが多数派で、この世界は愛と優しさに満ちていると誤解し錯覚しているだけである。メディアが流すものなどごく少数の一部でしかないものを流しているだけである。それを我々が勝手にみんなそうなんだ、と誤解しているだけなのである。
人はカメラを向けられると途端にいい人ぶるし、カッコつけたことを言いたがる。それが人の習性である。そのカメラを向けられ、カッコつけた人の言うことだけを流すのがメディアである。ただの作られたヤラセの虚構の世界を我々は見て、みんなそうなんだと誤解しているだけである
カメラなど向けられていない我々のリアルな現実社会を全く映していない。

■「いじめ」という言葉が隠してきたもの

日本では長年、「いじめ」という言葉が、あまりにも便利に使われすぎてきた。
暴行も、脅迫も、恐喝も、強要も、器物損壊も、侮辱も、名誉毀損も——本来はすべて刑法に触れる行為であるにもかかわらず、学校という空間に入った瞬間だけ、なぜか“犯罪”ではなく“いじめ”という曖昧なラベルに変換される。
この言葉の魔法が、被害者を守るどころか、加害者と大人の保身を守ってきた歴史は長い。

「いじめは存在しない」というバイアス

学校関係者の多くには、「いじめは認めたくない」という心理が働く。認めれば、報告義務が生じ、調査が必要になり、教育委員会に説明し、保護者対応に追われる。面倒が増える。だから、殴られていても「ふざけていただけ」。金を取られていても「仲間内の貸し借り」。脅されても「ちょっとしたトラブル」。
——こうして事態は深刻化し、子どもと親の信頼は音を立てて崩れていく。ある元教育委員の言葉が象徴的だ。
「9割の学校でいじめはあるが、表に出るのはその10%だけ」
“見なかったことにする”という文化が常態化している。

■動画拡散が「最後の手段」になってしまった理由

動画拡散が望ましいかといえば、もちろんそうではない。誹謗中傷が暴走し、無関係な人まで巻き込まれる危険もある。しかし皮肉なことに、動画が拡散されると、学校は急に動き出す。 これが現実だ。本来、大人が適切に対処していれば、被害者が命がけで証拠を残し、世間に訴える必要などなかった。周りの人間がSNSに上げる必要もなかった。
「不適切な私的制裁」と批判する前に、なぜ子どもがそこまで追い詰められたのかという根本を見なければならない。

■被害者が守られない国でいいのか

本来、犯罪行為があれば警察が動く。子どもが関わるなら児童相談所も関与する。それがこの国の仕組みだ。にもかかわらず、学校は加害者を守り、被害者を遠ざけ、「動画を撮るな」「SNSに上げるな」と、問題の本質ではなく“見え方”ばかりを気にする。
被害者が学校や教育委員会を信用できず、警察や児童相談所に直接通報するようになったのは、大人が信頼を失った結果である。

■必要なのは「厳罰化」ではなく「責任の所在」

大人が責任を果たさないから、子どもが自分で身を守るしかなくなる。これはあまりにも歪んだ構造だ。学校関係者が不適切な対応をした場合、懲戒処分を含む明確な責任追及が必要だ。それがなければ、同じことが繰り返される。いま議論すべきは、「動画を禁止するかどうか」ではなく、加害者への適切な対処と、被害者の保護・ケアをどう徹底するかこの一点に尽きる。

■「事なかれ主義」という名の放置

日本の学校文化には、「波風を立てない」「問題を外に出さない」という事なかれ主義が深く根を張っている。だが、問題を隠すことは解決ではない。むしろ、被害者を二重に傷つける行為だ。大人が責任を果たさない限り、子どもたちは守られない。そして、社会全体の信頼も失われていく。

■結論

「いじめ」という言葉は、本来“犯罪”と呼ぶべき行為を覆い隠すために使われてきた。その曖昧さを許してきた大人たちこそ、いま最も問われるべき存在だ。
子どもたちが安心して学校に通える社会は、大人が責任を引き受ける覚悟からしか生まれない。そしてその覚悟が欠けている限り、動画拡散という“最後の手段”は、これからもなくならないだろう。
ネットに晒して一部ででもバズれば「これはマズい」と初めて動き出すのが行政、企業、各種団体というものである。従って、問題は多々あるがネットにさらす私刑は一概に悪いとは言えない。そうしないと動かない人間が多すぎるから。

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